




「6000戸が見上げる太陽。」
マンモス団地という言葉から連想される、過密・窮屈・無機質といったイメージ。
完成当時、東洋一のマンモス団地と言われた公団草加松原団地を歩くと、そのようなネガティブな言葉とは正反対の印象を抱くだろう。
ここには、どこかに置き忘れてしまった、昭和30年代が目指した理想の住空間というべきものがあった。

【住所】草加市松原1-4ほか
【交通】東武伊勢崎線 獨協大学前駅 徒歩3~8分
【戸数】5,926戸(旧)
【間取】1K(ワンルーム)~3LDK+AN/37㎡~86㎡
見渡す限りの田園が広がっていたエリアに、約6,000戸・二万人規模の巨大団地として計画され、団地内で生活が完結するよう、商店街、小中学校、グラウンドなどの施設が設けられた。また、松原団地駅(現・獨協大学前駅)の開設と、日比谷線直通電車の運行開始により、都心へのアクセスが向上し、入居希望者が殺到した。
団地の敷地は東西に長く、全ての部屋が南向きになるよう南面並行配置で住棟が並んでいる。竣工当時の航空写真を見ると、田園地帯に突如として現れた、美しいパッチワークのような不思議な印象を覚える。

About
団地概要

Danchi
団地めぐり



マンモス団地という名の小宇宙。
高度経済成長期真っ只中の昭和37年、東京都の人口はついに1000万人を突破。止まらない人口増加と、追いつかない住宅供給で、郊外へ郊外へと、ベッドタウンが造成されていった。そんな最中に完成したのが公団草加松原団地だ。
今となっては想像のつかないような熱気のある時代ーーそういう時代に作られた団地は、人間を圧倒するかの如く高密度にコンクリートの住棟が並んでいるのだろう・・・そんな予想をしながら草加松原団地を歩くと、見事に裏切られる。確かに、4階建ての住棟がドミノ状に、地平線の彼方まで続くかの如く並んでいる・・・しかし、高層建築に見慣れてしまった我々には、むしろ、空の広さを感じる。また、2階建ての白いテラスハウスが並ぶエリアもあり、各住戸に設けられた庭、所々に設けられた芝生の共用空間により、親密でホッとするひと時を感じるだろう。団地内を貫く歩行者専用道を歩くと、様々な景色が展開され、つづきが気になる物語を読むような気持ちになる。

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その1



「団地の影の住人 ー シュロ」
個人的に草加松原団地といえば、シュロの木である。何故か、この団地にはシュロの木が多かった。団地内で写真を撮ると、必ずやシュロが写り込むのであった。何故、これほどまでにシュロの木が多かったのだろうか?どうやら、昭和30〜40年代にかけて、新婚旅行で南国ムード漂う宮崎へ行くことが流行した様なので、南国めいた風貌のシュロの木も、植木として好まれたようである(https://pictist.exblog.jp/24301694/)。そういう世相を反映して、この団地にも植えられたのだろうか?それにしても多い。そして、4階建ての住棟を追い越さんとばかりにすくすくと伸びているのも多かった。きっと、ここの土壌とシュロがマッチしていたのだろう。
団地という四角いコンクリートが並ぶ、和でも洋でもない風景ーーその風景の中に、これまた和のものとも洋のものとも判断しがたいシュロの木ーー意外と親和性が高かったのかもしれない。

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その2



”夜の団地はちょっとサイバーパンク”
夜の草加松原団地を歩く。取り壊しが迫っており、住民の殆どが退去し、広大な団地の敷地内はとても静かだった。ノラ猫が道を横切り、白い街路灯が弱々しい光を放っている。ひっそりと佇む、公園の遊具。あまり見慣れないコンクリートで出来た遊具。
そして、まだ住民がいる部屋の窓には、色とりどりの明かりが灯る。大勢の人が住んでいた最盛期には、四角い住棟の、四角い窓という窓に明かりが灯り、子どもたちの声、テレビの音、お父さんが帰ってくる足音、夕飯の匂い、お風呂を沸かす音などが漂っていたはずだ。そんな懐かしい風景に思いを馳せながら、団地という住まい、昭和30年代という時代を想像してみるのも面白いものだ。

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その3


























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